Harley Davidson XR750 と傷らだけのヒーロー – エベル・ナイベルの人生

ハーレーダビッドソンXR750という伝説のモデルがあります。そして、このバイクにまたがっていたのもまた伝説の男でした。『エベル・ナイベル(イーブル・クニーブル)』。アメリカのオートバイスタント界、永遠のヒーローです。

ハーレーダビッドソンにまたがり、挫折と試練に満ちた人生を歩んだエベルの失敗と成功の物語。本場アメリカからお届けします。

彼の失敗だらけの人生から、生きる勇気が湧いてきます。

 

(画像元:SALON.COM

Racing Heroes – Evel Knievel

オートバイスタントのヒーロ、エベル・ナイベル

(記事・画像元:Hemmings.com )

10人にオートバイスタントの伝説『エベル・ナイベル』を一言で表現してもらったとしたら、「怖いもの知らず」や「病的自己中」を含め、さまざまな回答があることでしょう。

全盛期のナイベル自身なら、そんな質問は鼻で笑って、次のように答えたかもしれません。

「俺は何よりもまず、ビジネスマンだよ」

伝説のヒーローには不可思議な言動が多くありましたが、その点ロバート・クレイグ・ナイベルの複雑で試練多き人生は、まだ理解しやすいのではないかと思います。

 

1. 不良少年から伝説のハーレースタントマンへ

ナイベルは、1938年10月、モンタナ州ビュートで生まれました。両親は彼がわずか2歳の時に離婚し、彼と兄のニックは祖父母に預けられました。8歳の時、ロバートは伝説のジョイー・チットウッドが出演したスタント・ショーに連れて行かれました。

映像:ジョイー・チットウッドのスタントTVショーCM

 

そのショーで受けた印象が忘れられず、後の自分のキャリアを決定づけたと語っています。その後、手に負えない不良少年になったナイベルは、ビュート警察とひっきりなしにトラブルを起こし、高校2年で学校をやめて、地元の銅鉱山で働くことになりました。

訳注:「ジョイー・チットウッド(Joie Chitwood)」はアメリカのレーシングカードライバーで、ビジネスマン。「ジョイ―・チットウッド・スリルショー」で「命知らず」として有名

若年者でありながら運転の腕前を見込まれ、ダイヤモンドドリルオペレーターから、重機オペレーターに昇進したナイベルは、早速ブルドーザーでウィリーをして、電力を供給する主送電線につっこみ、街全体を停電させて、結局アナコンダ鉱業株式会社をクビになりました。ナイベルに鉱夫の生活は合っていませんでした。

仕事がなくなったナイベルは、警察とトラブルを起こすようになってしまいました。警察に追われた末、オートバイをクラッシュさせたのを受けて、ナイベルは逮捕され、ついにはビュート市刑務所行きになりました。

刑務所では「オウフル(とんでもない)ノーフェル」として恐れられていたウイリアム・ノーフェルの隣の独房に入れられました。おそらくそれに合わせて、看守がナイベルのことを 「エビル(Evil邪悪な)・ナイベル」と呼び始め、良かれ悪しかれそのニックネームが定着したのでした。

わざとスペルミスをすることでウケる芸名になるだろうと思い付き、ロバート・ナイベルは自分自身を「エベル(Evel)・ナイベル」と呼ぶようになったのです。

 

2. 何をしてもダメだった、伝説のハーレースタントマン

最終的に、ビュッテ警察は、ナイベルに選択肢を与えました。軍隊に入るか、監獄に入るか、どちらか一つだと。軍隊に入れば新たな道が拓かれると考え、ナイベルは賢明にも前者を選びました。後に彼は、軍隊が彼の性根を叩きなおし、それまでの生活に欠けていた規律を与えてくれた、と語っています。

1950年代が終わると、ナイベルはビュートに戻り、セミプロ・ホッケーから、立入禁止の連邦政府所有地で猛獣狩りのガイドまで、あらゆる仕事をしました。

これらのどれも、ナイベルを物心ともに満足させるものではありませんでした。ある時モトクロスレースに転向しましたが、クラッシュで鎖骨を折り、短期間で挫折しました。

次に手をつけたのは保険販売です。早口のナイベルはこの仕事に合っていることがすぐ判明しましたが、昇進に時間がかかるという理由で、適職にも関わらずすぐに辞めてします。

何か新しいことを始めようと、ナイベルは、ワシントン州のモーゼス湖に家族を連れ移り住みました。そこでは、新進起業家が地域初のホンダ販売店を営んでいたのを見つけ、オートバイ販売の仕事に就きます。

しかし、1960年代初頭日本のオートバイの売れ行きは芳しくなく、雄弁なナイベルでさえ、利益を上げるほど在庫を回転させることができませんでした。販売店が廃業すると、ナイベルはワシントン州サニーサイドにあるドン・ポメロイ・オートバイショップで働き始めました。

そこで彼は、モトクロス・レーサー「ジム・ポメロイ」から、スタントライディングの助言を受けたのです。ナイベルは早々にウィーリーやサドルスタンドのような曲芸を完璧にこなすようになり、早速自分なりのスタントプログラムを練り上げたのです。

 

3. 失敗続きの転職活動から、ショービジネス界へ

スタントライディングは幼い時に見た、ジョイ―・チットウッド・ショーの記憶を呼び起こしました。頭が切れるナイベルは、ライダーが二輪に自らの命をかけるのを見るために、大衆が大枚をはたくことを見抜いていたのです。

エベルの最初のデアデビル(命知らず)ショーは、エベル自身が計画し、売り込んだものでした。チケットも自分で販売していました。ショーは、長さ20フィートのガラガラヘビの箱に続き、鎖でつながれた一対のクーガーを飛び越えるプログラムです。このショーは大成功を収めます。

彼の後輪はガラガラヘビの箱に着地し、その勢いで前方へはずんでクーガーを飛び越え、満場の喝采を浴びたのでした。それ以上完璧なエンディングは考えられなかったでしょう。そして、ナイベルは確信しました。ハラハラどきどきしている観客は、大金を払ってくれるのだと。永遠に続くかと思われた失敗続きの転職の後で、ナイベルは天職を見つけたのです。

 

その後、彼は、スポンサー付きのスタントチーム「エベル・ナイベルと命知らずのライダーたち」の結成に注力し、1966年1月にデビューを果たしました。最初のショーが当たったので、その後の予約を獲得することもできました。

しかし、スタントは時に失敗に終わることもありました。カリフォルニア州バーストーで開催されたショーで、タイミングを間違えバイクはナイベルの股間を打ち、彼を空中に4.5メートルほど投げ出しました。

この事故で入院を余儀なくされ、その後何度も繰り返すことになる長期療養の記念すべき一回目となりました。エベルが療養中に、チームは解散しました。スターもアトラクションを出せないので当然です。

栄光に輝いたかと思うと、壊滅的打撃を受け、そして急速に回復する。これが間もなくして、彼の十八番パターンになりました。

 

4. アメリカでスタントヒーローになる方法

1967年、ナイベルは、ジャンプを飛び続け、時には散々な結果に終わりましたが、ジャンプするたびに、ナイベルは有名人の地位に一歩ずつ近づいていきました。彼は、明らかに、いかなる代価を払っても成功したいという、執拗な欲望に突き動かされていました。

彼が最初に全米に露出したのは、ジョーイ・ビショップ・ショーのゲストとしてでした。番組出演後、彼は、より高い予約金でより多くの出演契約を獲得します。ラスベガスでの勝負に参加していた時、ナイベルは、シーザーズ・パレス・ホテルの噴水に魅了され、早速、それを飛び越す許可を得るため急いで計画を立てました。

ペーパーカンパニーを設立したナイベルは、俳優を雇って、弁護士、ABCテレビのワイド・ワールド・オブ・スポーツ代表、スポーツ・イラストレイテッドの記者を演じさせました。今度の祭典についてのやらせの質問を浴びせられ、シーザース・パレスのCEO ジェイ・サルノは、このスタントを承認しました。

こうして、1967年の大晦日、エベル・ナイベルは不可能を可能にし、ホテルの噴水の上をバイクで跳んだのでした。

 

訳注:「ジョーイ・ビショップ・ショー(The Joey Bishop Show)」は、1967年から1969年までアメリカで放映されたトークショー。コメディアンのジョーイ・ビショップがホスト役を務めた。

訳注:「シーザース・パレス(Caesar’s Palace)」は1966年開業のラスベガスを代表する名門カジノホテル

訳注:「ワイド・ワールド・オブ・スポーツ(Wide World of Sports)」は、ABCテレビが1961年から1998年まで放送していたスポーツ番組。

 

実を言うと、ABCはスタントにほとんど興味を示さず、最終的には、ジャンプが注目に値することがはっきりわかったら、映像を買って後で放送することで合意しました。

自腹を切って、ナイベルはハリウッドの監督ジョン・デレクを雇い、スタントを撮影しました。コストを切り詰めるため、デレクは妻のリンダ・エバンスに、着陸用の台座を撮影させました。

預金を使い果たすと、ナイベルはワイルドターキーのショットを飲み干して、トライアンフのオートバイにまたがり(ハーレーダビッドソンのXR750への切り替えはまだ先のことです)、素早く祈りを捧げ、歴史に名を残すために走り出しました。

 

訳注:「リンダ・エバンス(Linda Evans)」はアメリカの女優。代表作は大人気ドラマ「ダイナスティ」
訳注:XR750への切り替え時期ははっきりしませんが、Wikiによると、遅くても1971年には切り替えていたようです。

 

ジャンプは失敗でしたが、華々しい失敗でした。離陸の瞬間にわずかにパワーが不足し、ナイベルは飛び越えることができず、着陸用の台座に降りたときの衝撃は、彼の手からハンドルバーをもぎ取りました。柵の上に投げつけられたナイベルは、およそ50m、ぬいぐるみのように転げまわり、骨盤を粉々に砕き、大腿骨、股関節、手首、両足首を骨折しました。

事故後彼は29日間昏睡状態に陥ったと伝えられています。そのため、医師は、「彼は二度と介助なしで歩くことができないだろう、ましてやオートバイに乗るなんてありえない」と診断を下しました。
ここまでが悪いニュースだったとしたら、今度は良いニュースです。エベル・ナイベルの名が知れ渡ったため、出演料を多かれ少なかれ指定することができるようになったのです。1968年5月25日、ラスベガスでの致命的なクラッシュから5ヶ月足らず後で、エベル・ナイベルはアリゾナ州スコッツデールでのジャンプのため、再びバイクにまたがりました。それも結局クラッシュで終わりましたが、今度は右足を折っただけでした。

しかし次のショー、7月6日ソルトレークシティでは、13台のトヨタのサブコンパクトを飛び越えることに成功しています。

 

5. 35か所の骨折と14回の手術

ナイベルのプロとしての生活の大半が、こういう状態でした。何百回もジャンプして、大部分は成功しましたが、人々の記憶に最も残ったのは、失敗で終わったジャンプでした。

身体中のあらゆる骨を折ったというのは言い過ぎにしても、35本を折り、何本かは繰り返し折り、粉々になった骨をピンで留めたり金属板で固定したりするために、計14回の手術を受けたというのは本当です。どのクラッシュの後も、エベル・ナイベルは、結局、一見無傷で現われ、再びバイクにまたがり、観客をはらはらドキドキさせるのです。そうすると、毎回種類が増える彼のイメージ・マスコットが売れていきます。

1974年に失敗で終わったスネーク・リバー・キャニオン・ジャンプのような期待外れもありましたが、そんな失敗でさえ、「新生ローマの最後の剣闘士」と自称した男には、経済的利益があったのでした。

訳注:「スネーク・リバー・キャニオン・ジャンプ(Snake River Canyon Jump)」では、渓谷を自製の人間ロケットで飛び越えようとしたが、緊急用パラシュートが誤作動で開いてしまい、失敗に終わった。

 

6. エベルのバイクスタントに終止符

全てを終わらせるような致命的なジャンプはありませんでした。1977年1月、ナイベルは、13匹のサメが入った高さ90フィートのタンクを飛び越えるため、シカゴにいました。映画「ジョーズ」が流行った後でしたから、メディアが「海の殺し屋」にむらがる危険性は、十分考慮していました。

にも関わらず、リハーサル中に、ナイベルは激しくクラッシュして両腕を折っただけでなく、カメラマンに突っ込んでしまったのです。このカメラマンは、この事故で危うく片目を失うところでした。

ナイベルは、自分自身が傷つくことは恐れていませんでしたが、突然、彼の行動が、他人にリアルで直接的な危害を加えてしまったのです。これを受け、ナイベルはついにジャンプを辞めると発表しました。

本当に辞めていたのは1979年までの2年間で、その年ナイベルは、オーストラリアのニューサウスウェールズで一連のジャンプを繰り広げ、翌1980年にはアメリカとプエルトリコで5回ジャンプを続けざまに行っています。

しかし、その頃には観客は減りジャンプも小粒になっていました。そしてついに、エベル・ナイベルは1980年3月の最終公演をもって引退しました。

 

7. 晩年にさらに降りかかる失敗

パーフェクト・ワールドなら、エベル・ナイベルの武勇伝は最高潮で終わるでしょうが、実際はそうなりませんでした。シカゴでジャンプに失敗した後、ナイベルは、野球バットで伝記作家を殴り有罪判決を受け、懲役6カ月の判決が下りました。この判決で、実入りの良いおもちゃのコマーシャル契約をふいにしています。

それだけではありません。突然エベル・ナイベルは、朝食用シリアルから雑誌広告まで、全てのCM契約をキャンセルされてしまったのです。

1986年、彼はカンザスシティで売春婦を買おうとした罪で告発されました。この売春婦は、おとり捜査の女性警官だったのです。9年後の1995年に恋人のクリスタル・ケネディ(後に彼と結婚し、その後離婚)に暴行した罪で起訴されましたが、これらの告訴は取り下げられています。

このころ彼は既に、C型肝炎からきた肝不全と戦っていました。たくさんの事故のうちのひとつで行われた輸血によって、感染したのです。さらに彼はアルコールの問題も抱えていましたが、晩年になるまでそのことを認めませんでした。

 

8. オートバイヒーローの最後

欠点は色々ありましたが、ナイベルは、決して約束を破らず、どのジャンプの前にも静かに祈り、観衆にアンチドラッグのメッセージを届けることを厭わなかった、と言われています。

苦痛と逆境の中で戦い抜き、世界中のファンにスペクタクルを届けることで、多くの人にインスピレーションを与えました。

1975年5月にウェンブリー・スタジアムでクラッシュした後、ナイベルは、腰と背中の重傷をおして立ちあがり、群衆に話しかけてから、ABCテレビのフランク・ギフォードがストレッチャーを使うよう嘆願したにもかかわらず、自力で歩いてアリーナを退場しました。

「俺は歩いて入って来たんだから、歩いて出ていくのさ」と軽口を叩いたと言われています。

 

訳注:「ウェンブリー・スタジアム(Wembley Stadium)」は、かつてロンドンのウェンブリーにあったサッカースタジアム。ナイベルはここで14台のバスを飛び越える世界記録に挑戦した。

訳注:「フランク・ギフォード(Frank Gifford )」は1950 年代から60年代にニューヨーク・ジャイアンツで活躍した元アメリカンフットボール選手。引退後はABCテレビのアナウンサーに転身。

 

たいへん皮肉なことに、2007年11月30日、69歳のロバート・クレイグ・ナイベルの命を奪ったのは、怪我ではなく病気(肺線維症)でした。

彼は、晩年の何年間もメディアに注目されることがなかったので、このニュースは多くの人を驚かせました。恐らく、ナイベル自身が、最後のインタビューで、最も見事に自らの死を総括しています。「ずいぶん前からお迎えが近づいて来てたんだけど、あんたらはそんなこと、夢にも思っちゃなかったんだ。だってスーパーマンが死ぬってことはないからな。」

 

まとめ

日本でも有名なスタントマンと知られ、当時はイーブル・クニーブルの名で親しまれていました。おもちゃなどグッズも流通するほど人気でした。エベルのオートバイスタントは、見る者すべてを興奮の渦に巻き込み、成功に歓喜し、そして失敗に震えます。エベル自身の人生も成功と失敗に満ちたものでした。再起不能とまで言われながら何度も復活をし、そしてまたド派手に失敗をする。このダイナミックな男の人生に、XR750は寄り添いました。ヒーローのマシンとして、今もなお伝説が語り継がれています。


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